想い出
それは、髪から垂らした風切り羽が風に靡いた拍子にふと脳裏を掠める記憶。
鮫のような、犬のような、獰猛さと傲慢さが覗く笑みを浮かべた男の髪が
まだ短かった頃の記憶。
剣帝を倒した男の身体から、利き腕が失われた頃の記憶。
風に吹かれてくるくると揺れる羽の記憶。
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久しぶりに滞在する本部の屋敷の中を勝手知ったる足取りで闊歩する。
昔はここで育った時期もあり、それから改築も行われていないのだから当たり前だ。
屋敷の中には何箇所か、窓を開けると床と同じ高さに下の階の屋根が突き出す場所がある。
その中の一箇所は特に、中庭にも面していなければ屋敷の正面からは死角にもなっていて、
人の気配に邪魔をされない心地の良い場所だった。
昔から、屋敷の中でゆっくりと息を吐ける数少ない場所だった。
目的地でもあったそこに辿り着くと窓を片側だけ解き放ち、
窓枠を軽く乗り越えると屋根の上に降り立った。
そこは静かで、日陰で、空が広く見え、視界の奥には森が広がっている。
屋根とはいえ平らなであるそこは非常に足場として安定していて、
軽く降り立った身体は危なげなくその上に落ち着いた。
屋敷の中の様子には警戒にも近い意識を向けつつ、
屋根の上に腰を下ろして閉じたほうの窓枠に寄りかかると片足を伸ばす。
左手はいつでも動かせるようにと立てたほうの膝に引っ掛けている。
いつどこで、誰が襲ってきても返り討ちに出来るように。
その習性は、
不意打ちを喰らっても大抵の状況を乗り越えられる力を身に付けた今になっても直りはしない。
父親が非常に穏健な人柄であるためか、幼い頃から周囲に安堵できる場所などは存在しなかった。
あの穏やかな顔を見て、付け入り易いとでも思うのだろうか。
その地位を脅かせるだなどと、思いあがるのだろうか。
気を抜けば身近に潜む者に殺されると、教えてくれた男は実際身近な者に殺された。
生き残るために人を信じないことを教えられた。
付け入られないために独りで立つことを教えられた。
背を取られないために先に殺す術を教えられた。
そうして教えられた通りに人を信じず、人を頼らず、人を殺せるようになった紅の瞳のガキを見て
大人は恐怖の表情でこの子供は危険だと口を揃えた。
幼いながらに背筋を凍りつかせるような冷たい笑みを覚えた子供を見て
悲しそうな顔をしたのは父親だった。
父親の前でさえ警戒を解かない子供を見て、
屋敷の中でさえ熟睡することを知らない子供を見て
どれほど長い付き合いの相手でも殺すことを躊躇わない子供を見て
彼らはそれを異端と、異質とした。
誰も信じるな、心を許すなと教えた大人たちが
部下を信じることの出来ない相手を主君と認めることは出来ないと言った。
元より誰のことも信じてなどいない。
その言葉に傷つくような心も持ち合わせてはいなかった。
幼い頃から聞き飽きた言葉を思い出し、嘲笑うように口元を歪めた。
そよぐ風に誘われるように青い空を見上げる。
雲が一つも無い青々とした空の頂に、黒い影が一つ緩やかに弧を描いていた。
猛禽類の特徴的なシルエット。
傍に巣でもあるのか、時折見かける姿だった。
影と声だけで断定できるほど詳しくは無いが大方イヌワシかそこらだろう。
ぴゅーぃぴゅーぃと気高く空を震わせて、指を開くように雄雄しく開いた翼が空を切る。
空を悠然と旋回するその影に、昔からなにか羨望に近いような感情を抱いていた。
勿論、実際の彼らが優雅でもなければ悠然としているわけでもないことなど承知している。
それを承知の上で、しかし青空を舞うその影には惹かれるものがあった。
障害も何も無く大空を切り裂く翼に、自然と視線が奪われた。
涼しい風に吹かれ、頬を掠める羽飾りを肩の後ろに追いやる。
いつだったか、大人の誰かが気まぐれに教えてくれた風切り羽というもの。
それを傷つけてさえしまえば羽が生え変わるまでその鳥は満足に飛ぶことなど出来ないのだと。
羽を傷つけられ、地に落ちて死んだ鳥を指して言った。
鳥が飛べるのは何より風切り羽を持つからなのだと。
翼を持ち空を舞う鳥でもこうして地べたを這うしかなくなるのだと。
その風切り羽をこうして身につけているのは羨望か
それとも空を舞う鳥を地に沈めたい衝動か。
風が吹くたびに肩の後ろから出てきてははためく羽飾りに
まるでこの黒髪に縫い付けられた風切り羽が空を恋しがっているようだと思った。
「う"お"ぉぃこんなとこにいんのかよぉ」
部屋にいねぇから探したぞぉ
振り返ると、開いた窓から銀色の髪が見えた。
宛がわれた部屋を出てくるときに起きる気配が無かったからそのまま置いてきたはずの。
短い髪は突然吹いた風に煽られて逆立っている。
「何の用だ」
「あんたが部屋にいねぇんだ。探しちゃ悪いのかぁ」
どうやらいつもの屋敷ではないことである程度気を張ってはいるらしい。
しかし窓枠に腕を付いて溜息を吐くその顔色は悪い。
元々白い肌が色を失っている。
他の人間がいるときには鋭くなる眼光も今は力が無く、
どこか物憂げにも見えるために余計に具合が悪そうに見えた。
風に乱れた髪を利き手で無い右手で撫で付ける仕草も、
馴れていない所為かどこかぎこちない。
「熱も下がらねぇやつがうろうろしてんじゃねぇよ」
あいにくと怪我人に心配されるほど落ちぶれちゃいねぇ。
吐き捨てて空を見上げると、細い身体が窓枠を跨いで隣にやってくるのが視界の端に見えた。
ずるずると座り込んだ息は荒くなっていて、
前髪を押しのけるようにして額に手をあてると案の定熱かった。
「このカスが」
「・・・こんなとこで何してたんだぁ」
具合が悪いことへの自覚はあるようで、罵声にも口を僅かに尖らせただけで反論はしてこない。
溜息交じりに疲れたような声で呟くのを聞きながら、
立てた膝に引っ掛けている左手とは違って屋根に下ろしていた右腕の脇に垂れ下がった
自分の肌の色と比べると大分色の白いその左腕に手を伸ばす。
肘の先は、半ばから止血を兼ねてきつく巻かれたた包帯に包まれている。
「・・・・・なんだぁ?」
灰色の瞳が、包帯を撫でる手を不思議そうに見やる。
手首の辺りで途切れる包帯に包まれた手首の先を撫でると、その肩が身を引くように揺れた。
その様子に、やはり触れると痛むのかと思う。
「痛むのか」
「・・・触ってから聞くかぁ?・・・・・・痛むのは元々だぁ。そんくらい触っただけなら特に酷くならねぇよ」
「そうか」
「ただ・・・よぉ」
なら構わないだろうと触れようとすると、再び肩が揺れて腕が逃げる。
「・・・なんだ」
「や・・・なんか、すげぇ変な感じすんだぁ」
もともと触れられるはずの無い体内にあたるはずの場所に他者が触れられるという感触は
少なくとも心地よくなどは無いだろう。
「だろうな」
「う"お"ぉぃ・・・なら触んなよぉ」
鼻を鳴らして、逃げようとしたところでたかが知れたその動きを気にせず
逃げた仕返しとばかりに手首の先を手のひらで包み込むようにすると、
精一杯逃げようと身体を傾けた肩がぴくりぴくりと違和感に揺れた。
「う"ぉ・・・気持ち悪ぃよ」
肩を竦めたその背が、手首を指で撫でるようにすると顔を背けて呻くのを見て、
冗談でなく気持ち悪そうな様子に触れていた手首を離す。
ぜぇ、と息を切らせた頬に脂汗が滲んでいるのが見えた。
銀色の髪をかき上げるように首の後ろからその頭を掴むと、
屋根の上に伸ばした右足と、膝を立てた左足との上にその上体を倒そうと引き寄せる。
「う"お"ぉぃっ」
体調の悪さに拍車をかけられていた身体は反応が鈍く、
突然引き寄せられたことに対処しそこなってバランスを崩した。
本来なら左手を付いて支えたいところをそうするわけにも行かず、
庇うように包帯に巻かれた左手を持ち上げると右手で窓枠を掴むようにして
引き寄せられるままに倒れこみかけた身体を辛うじて支えた。
「あんた何がしてぇんだぁ・・・・」
窓枠を掴む右腕の表面に血管が浮かび上がって見えた。
前から細身ではあったが、剣帝とやりあった後少し痩せたか。
「煩ぇな大人しくしてろ」
窓枠を掴んだ右腕一本で支えている上体をもう一度引き寄せると、
諦めたように窓枠から右手が離れ、その肩から上が足の上に身を預けた。
銀色の髪が足の上に広がり、視線を下向けると困ったように見上げる灰色の瞳と目が合う。
その額に左の手のひらを当てると、額との温度差に心地良さそうに瞳が細まった。
「ぁー、冷てぇ・・・」
「いつ飲んだ」
「ぁ?・・・・あぁ、薬なら朝だ。とっくに切れてるぜぇ」
「鎮痛剤もか」
「おーよ。寝れもしねぇ」
小さく苦笑すると、灰色の瞳が視界に映る空を見た。
見下ろした先にある灰色の瞳に、雲ひとつ無い空が映っているのが見えた。
眠れないと言った割には眠そうにゆっくりと瞬きする瞳の上で、
額から温まった手の平をどかすと今度は左手の甲を当てる。
「空でも見てたのかぁ?」
確かにきれーだなぁ、と白い頬がかすかに笑う。
一度横たわった身体は、上体を起こしていたときよりもよほど疲れて見えた。
「・・そんなところだ。鳥が見えるだろ」
「・・・・・・」
瞳が彷徨うのを見て、顔をずらさなければ見えない位置を旋回している鳥の影を指で示す。
心持ちゆっくりと頭ごと指先を追った視線が、鳥を捉えたようだった。
「・・・あれ見てたのかぁ?」
「あぁ」
「あんた鳥好きだなぁ」
肩を揺らして笑いながら鳥の方に向けていた顔を戻すと、
右手を伸ばしてきて髪から垂らした羽飾りを指先で弾いた。
時折風に揺れていた風切り羽が頬をくすぐった。
「さぁな」
薄く笑うと、額に当てていた手の甲を再び元に戻して手のひらに直す。
僅かに息が荒いことからも判るように、熱は高いが眠れる状態ではないようだった。
何か食わせて副作用で無理矢理眠らせてくれる解熱鎮痛剤でも飲ませるべきか。
「・・・あんた、窮屈か?」
「はぁ?」
何がだと聞こうとして視線を下向けると、珍しくまっすぐに見上げてくる真面目な瞳と目が合った。
しかし何処か焦点がぼんやりとしている。
「あんたにはやっぱ、窮屈なのかぁ?」
吐息交じりの声と、時折眠たそうに閉じられる瞼と、熱でぼんやりとしつつある瞳と。
熱に浮かされ始めでもしたか。
「ったく、起きて来んじゃねぇよカス」
額の上に置いた左手でその額を軽く叩く。
流石に今のこれを殴る気は起きなかった。
うっかり殴った日にはそのまま屋根から落ちかねない。
「なぁ、ザンザス」
「なんだ」
「・・・・・・」
灰色の瞳がじ、と見上げながら何かを考えている。
何を言うのかとその瞳を黙って見下ろしていると
少しして、その視線は流れるように青空を向いた。
「・・」
何を言おうとしたのか、開きかけた口が不意に苦笑を浮かべると閉じた。
忘れるかのように眉間に微かに皺を寄せて瞳を閉じる。
「おい。なんだ。」
促すように額に当てた手で前髪を掻き分ける。
再び開いた瞳は、空と紅の瞳とを映すと片方の頬で苦笑した。
「答えろ」
覗き込んだ眼光を鋭くすると、弱った身体がわざと放った殺気に敏感に反応して肩が揺れる。
身じろぎながら顔を背けたそうにする額に宛てている左手でその頭を押さえつける。
辛そうに、口から体温の高さを思わせる熱い吐息が漏れた。
息を荒くするその胸元のシャツのボタンを1つはずす。
開いた鎖骨回りに右手を当てると、熱い肌の感触が手のひら全体に感じられた。
「は・・・、冷てぇー・・」
「熱高ぇな」
「・・・・・・・なら労われよぉ、このくそ御曹司・・」
「は、どの口がそういうことほざく」
そう鼻であしらいながらも、今だ意識を保っている瞳以外はほぼ弛緩しきっている身体を見て
気まぐれ程度にその開いた襟元から覗く肌をさする。
視線を感じて応じると、灰色の瞳が静かにこっちを見上げていた。
「似合わねぇ・・・」
「てめぇも文句の多い野郎だな」
「いや・・・冷たくて気持ち良いけどよ・・」
目を細めて呟くその姿は今にも眠りそうに見えもする。
実際、熱と痛みが和らげば直ぐにでも眠るだろう。
溜息のように熱い吐息を吐き出すと眉を顰める。
眉間に寄った皺を軽く撫でると、うっすらと灰色の瞳が覗いた。
「あんたはさぁ」
微かに紡がれる声を、
そよぐ風に流して聞いた。
「こんなとこ窮屈で、もっと広い空みてぇなとこ飛びてぇのかな」
聞いてなどいないようなそぶりで、灰色の瞳もぼんやりと見上げているのだろう青空を見上げる。
「でもあんたはさぁ」
「きっと」
「風切り羽を持たねぇ鳥なんだろーなって」
「飛びたくても飛べねぇんだろーな」
風が吹いて、髪から垂らした羽飾りを誘うように持ち上げた。
風に応じようとした風切り羽は
髪飾りの先端でくるくると回った。
聞いてなどいなかったように返事はせず。
聞かせてなどいなかったように瞳を閉じ。
ぴゅーぃぴゅーぃと気高い鳥の声が微かに風に運ばれるのを聞いた。
そよぐ風にしばらく身体を晒してから視線を下ろすと、
喋るだけ喋って疲れたのか、瞳も閉じたその身体が弛緩しているのが見えた。
部屋で眠る前に9代目と言葉を交わした際はあんなにも傲慢な笑みと鋭い眼光を見せていたのが
今はこうして息を荒くして、ボンゴレの本部の屋敷とは言え
決して彼にとって気を抜ける空間などではない場所で身体を弛緩させている。
左手で額を撫でると瞳が開こうと睫毛が揺れ、それを制するように瞼を手のひらで覆い隠す。
「何か食えるか」
逡巡を見せてから首を振ったその身体を肩に担ぎ上げて
とりあえずは医務室に行けば注射でも何でもあるだろうと、
抵抗すら見せる気配の無い体躯に違和感を覚えながら歩き出した。
風切り羽は、相変わらず髪から下がった飾りの先端で、ゆらゆらと揺れていた。
- fin -
あとがき
傷なのか看病なのか想い出なのか、ずっと迷いながら書いていました。
話の主軸が想い出のようなので想い出で投稿させていただきました…。
それはただの戯(たわ)言。
記憶の底に根付いた戯(ざれ)言。
スクアーロの生存を信じております。
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